2009年07月11日

専攻建築士という建築士

士業たるもの日々学習し、鍛錬し質の高い建築創造を行うことを推し進めることがその職能です。その学習の場提供が(社)建築士会連合会でCPD制度として用意されています。この制度、Continuing Professional Developmentは専門職のための継続的な技術向上を図るプログラムで、医師の団体などではいち早く取り入れられていたものです。
建築士も全国で100万人以上もいるそうですが、技術の進歩や社会情勢の変化、身近なまちづくりへの関わりなどその職能の領域は多様で多岐にわたっています。建築士というくくりだけでは、さらに深まる専門性への対応は難しく、その必要性からもこういった制度が求められてきたのでしょう。

CPD制度は学習に応じた単位を認定し、一定以上の単位取得に対して分野別に専攻建築士という認定する制度も用意されています。下世話な表現で言うと、人は目の前にニンジンをぶら下げられると、行動の動機付けになる、ということではないでしょうか。ただ、ニンジンを食べるのは本人ですから、首を伸ばすだけなのか、ニンジンを探すのか、ニンジンを植えるのかなどは、日々すべて自主的に、能動的に動くことがその基本で重要なところでしょう。
  
埼玉建築士会では、昨年が導入3年目ということで建築士の取得から15年以上の実績で認定してもらえる特典の最後の年度でした。飛び込みでセーフということでいただきました。いただくとおいしいことがあるわけではまったくありませんが、ちょっとした目標ができたのはよい励みになります。今回は拾ったニンジンだった、のしょうね(笑い)

認定内容は、単位取得が義務付けられ5年ごに必要単位(250単位/5年)を獲得して更新申請を繰り返すことが求められています。もちろん日常の実務も単位になりますが、建築に関わる講習会や講演会などの受講、専門誌による自己学習、展示会の出展、書籍執筆、競技設計入賞、大学の授業などが単位として認められています。地域への貢献する企画などもその対象となります。自ら講師をすると倍の単位数なるなどはおいしい特典かもしれません。
今回は、15年以上の実績という猶予期間での特典ということですので、えらそうなことはいえませんね。反省です。

建築士は「足の裏についたご飯つぶ」などともいわれました。取っても食べられない。諧謔的に言っていましたが、今や自虐的な言い方かもしれません。
耐震偽装事件は建築士という職能が大きく失墜するものでした。A建築士は建築士会の会員ではなかったようですが、それで良しということにはなりません。国家資格は持っていたわけですから、他山の石と言うことではなく、国家資格そのものが問われることになり、資格制度そのものの危機となってしまいました。
事件後の波は、権限や資格を与える行政側の対策として、いろいろな場面で目を光らせる仕組みを用意して「厳しく」取り締まること、という一番手っ取り早く、一見分かりやすい解決方法を示したわけです。

建築実務には多くの部分で書類が存在しますが、確認申請の際に、このような書類がほんとうに必要なのかと思われるようなものまで要求される実態を作り出し、確認の遅れが社会経済にまで影響を及ぼす状況にまで陥ってしまいました。直接の審査側も申請する事業者側も実情から乖離した要求と感じながら、当惑し、自信も失ってしまったという状態であったと思われます。建築業界が一気に萎縮してしまった感はありました。建築の関係団体も本質的な改善策にはならないということを言い続けてはいましたが、大きな声にはなってはいません。A建築士の行った信じられないことへのショックがあまりにも大きかったということも「しかたないか」という空気をつくってしまったように感じます。
実質は変わっていませんが、最近はようやく状況への対応が申請側、受け付け側の双方でできるようになって混乱からは抜け出しつつあるのかもしれません。単に混乱に慣れてきたということで、形式的な書類添付がなくなったわけではありません。無駄な書類は資源の無駄です。といっておきましょう。これはほんの一現象にすぎません。

他にもいろいろな余波が続いています。
建築士は3年に1度の講習を義務付け。設計事務所も特定行政庁に毎年業務報告の義務付け。事務作業が従来より増やされました。見方によっては、今まで甘かったということなのかもしれません。しかし、形式的な感じがしないわけではありません。何らかのチェックをしていると思いますが、その結果、建築の品質が上がることにつながるのかには、なはだ疑問も残ります。ここでも形式的な書類が増えているだけです。是正等の連絡がないのはこちらにとってはよいことなのでしょうが・・・。
講習も建築の質につながるものであるならば半歩譲って良しとしてもいいのかもしれません。強制される講習の目的がそこにあるのかどうかは? まだ、受けていませんのでわかりません。今年度中には受講したいと思っていますが・・・。

たまたま、建築に関わっているのでその領域内に起こっていることが、自分に降りかかってきているので見えているだけなのですが、他のさまざまな領域でも同様なことが起こっているように思えてなりません。規制の強化は、必ずそのチェックが必要です。チェックする仕組みには人が介在しますからコストがかかることになります。もし、形式的なことであり、実効性が乏しいならば無駄なコストを払っていることになります。さて、それを支払っているが誰なのでしょうか?ということになるわけです。どうもこういうことが世の中多くなっているように思えます。

建築が窮屈になってきたと感じていますが、それだけでなく社会全体がギクシャクと窮屈になっているのかもしれません。いやな事件もそんなこと等々が遠因にあるように結び付けたくなります。
さまざまな「偽装」が必要以上の規制を生み、不要なコストをかけて窮屈な社会にしているのではないか。人は善人と見るのではなく、悪人と見ることからのスタートする考えですから窮屈になって当たり前なのです。今食べているご肉は何処産?なんて、こんなことばかり考える昨今です。脳ミソが固くなっていくような感じでしょうか。まさに脳梗塞の状態?日本全体が。

ムッム・・・こういうのは、どうもまずいですね。愚痴が多くなっている自分がいます。

こういうときには山に行くといい。
木の伐採を見ると精神的によいと思っています。

2007_1020_081s.jpg
木を植える人、木を育てる人、そしてその木を伐る人。木を伐る人はお爺ちゃん、あるい曾爺ちゃんの植えた木を伐ることになります。目先の話だけではどうしようにもできない時間がそこにはあります。
倒れるときの地響き。
樹が木に変わる瞬間です。
 2007_1020_097s.jpg
2007_1020_109s.jpg
 
切り株をみながら、その木を使わせてもらい100年の寿命を持つ家をどうやって作るかを考えます。

脱線しますが、「200年住宅」というのが今の住宅のキーワードのようです。大きなメーカーでもキャッチコピーにしています。でも、まずは100年を確実に考えることが重要でしょう。50年であれば、あばら家(※1)であっても耐久性としての寿命は持つものだと考えていますが、100年となると基本構造をしっかり造る仕組みを持っていないと無理ではないかと。その仕組みを持っていれば、手入れをちゃんとできれば100年以上の長寿命でも実現できるはずと考えています。
 2007_1020_118s.jpg
何年かの時間が切り株を大地に同化させ、
大地に戻していく。
 それから、山の木を伐ることを環境破壊と勘違いされる方がいます。最初の授業で学生に意見を聞いてみると、木造住宅は木を使って環境を壊しているのではないかというようなものもあって、おいおいという感じです。もちろん、天然の南洋材や北洋材の無計画な伐採によって環境が破壊され続けていることは間違いあ
りません。国内の林産地では林業という産業として成立させるために、計画的に山を守り維持していく仕組みとして存在しているものです。いろいろ課題があることも現実の問題としてはあがっていますが、これはまた別のところで。

戻ります。倒された木の断面はけっして正方形や長方形ではありません。当たり前のことです。丸くてゆがんでいます。多くの場合は、これを矩形断面に製材してもらうことになりますが、山に行けばその木にあった製材をしてもらうことだってできるのです。柱は、なにも4寸角や5寸角という決った寸法でなければいけないというわけではありません。手間のことをヨコにおいておけば、自由な形に、寸法にできるわけです。丸太のままであってももちろんかまいません。

伐採に立ち会うと条件反射的に年輪を数えてしまいます。外側から数えていけば、今年から1年、2年・・・10年前という風になり、自分の生まれた時の木の太さなどが気にかかることしばしばです。
年輪を数えると、教科書の中で見た歴史的事件の起こっったときに植えられていた木なんだ、ということなども分かります。木を伐る人は、この木を植えた爺さんがそのとき何をしていたのだろうなどと思いをめぐらすこともきっとあるでしょう。60年前、100年前その時に、この場所でなんて。 
・・・専攻建築士からいろいろ脱線してしまいましたが、脳ミソが柔らかくなってきました。

※1:「戦後の町を復活させたジョンソンタウン」
  米軍ハウスは、当時急造で建てられたのではないかと思われます。入間基地周辺には今でも、当時のものと思われる平屋建ての住宅がジョンソンタウン以外にも点在しています。現在の目で見れば「あばら家」といえるでしょう。住宅の質という点で、50年以上は存在しうる耐久性は十分に持っていることは証明しています。長く住み続けられているということにはさまざまな理由があるとしても、時間的に存在していることは重要なポイントです。ただし、これからさらに同程度の時間となると問題が多いのではないかと思います。
posted by 太郎丸 at 10:49 | Comment(0) | MJK463ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。